「あの日」を忘れない

友人と別れた2日後に、阪神淡路大震災が我々を襲った。

発生当時、私は2階の自室で寝ていたが、激しい揺れでベッドから振り落とされて目を覚まし、その直後、大人の背丈ほどある本棚が自分の寝ていた場所に倒れた。もしベッドから落ちていなければ・・今思い出してもゾッと全身鳥肌がたつ。

何が起きたのかわからないけど、とんでもない事になっている。
その時は妙に落ち着いてベッドと本棚を見つめていたが、下から父親の「大丈夫か!!!!」という叫びで急に不安になり、「お父さん!!お母さん!!」とひたすら叫んだ。
幸い1階で寝ていた両親に怪我はなく「大丈夫だよ」と声をかけながら私と合流した。その後何度も余震があり、家がミシミシと音をたて、そのたびに家族3人で抱き合って収まるのを待った。部屋の中は家具、小物が部屋中に散乱し、特にキッチンは食器棚のガラス、食器の破片が一面に散らばって、とても入れる状態ではなかった。

夜が明け、父親と一緒に外の様子を見ると、半壊した建物がいくつか目に入った。
近所の人から「今ラジオで大阪で大きな地震があったと言ってる」と聞き、大阪に会社がある父は「会社の上司に連絡を入れる」と家に入り電話をかけようとしたが、電話はつながらなかった。

玄関横の和室兼客間に布団を持ってきてそこで過ごした。電気もガスも使えず、服を何枚も重ね着し寒さをしのぎ、何度発生する余震におびえ、この先どうなるのか不安しかなかった。

しかし父は、私と母親に「危険だからここにいるように」と言って、近所の人と共にお年寄りの様子を見に行ったり、水や食料を配ったりと、人のために動いた。

その後の事は、TVの報道でご存知の通りだ。

あれから20数年。
東灘区は阪神間の憧れの街として、関西の住みたい街ランキングで常に上位に入るほど人気の街に生まれ変わった。