「あの日」がくるまで

人それぞれ、自分にとって忘れられない「あの日」があるだろう。
高校部活の最後の試合、卒業式、結婚式、子供が生まれた日-。
自分の人生に大きな影響を与えた、かげがえのない「あの日」を誰しも抱えて生きている。

私にとっての「あの日」、それは「阪神淡路大震災」である。
1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生した。

あれからもう22年。当時10歳だった私も、30歳過ぎのおじさんになってしまった。
あの頃の私は、四六時中野球のことしか考えておらず、授業中もボールを握っていたほど。ある時、担任の先生に見つかってひどく叱られ、放課後反省文を書かされた苦い思い出がある。
今でも、休日に会社の同僚と野球をしたり、会社帰りに野球観戦を楽しんだりと、昔と変わらず野球を愛している。

ふと、あの頃仲良しだった友人の事を思い出した。
その友人は1993年に造成された六甲アイランドに住んでおり、神戸市のホームページによると、当時1万4千人が六甲アイランドに住んでいたという。
少年野球で仲良くなった友人。練習後に彼の家に何度か遊びに行った事があるが、100m程の高さのマンションが軒を連ね、SFのような未来的な雰囲気と、また未来的な雰囲気がありながらも騒音の少ない閑静な街の雰囲気が、とても印象的で好きだった。

私は神戸市東灘区生まれ、東灘区育ちで、現在も東灘区に住んでいる。
生まれて以来ずっと東灘区から出た事が無く、大学も、就職も、東灘区だ。自分が思っている以上に、地元に対する愛着が強いのだと思う。(転勤などやむを得ない事情がない限り、今後もできる限り東灘区で過ごしたい)

友人は私とは正反対に、父親の仕事の関係で何度も引っ越しを繰り返していた。
震災直前の日曜日、練習後に友人から「引っ越ししなくていいように中学受験するのってどう思う?」と言われた。野球の事しか考えていなかった自分と違って、自分の道を切り開こうとしている友人に驚いたのを覚えている。
もし受験をするなら野球は辞めないといけないけど辞めたくない。でも引っ越しはもう嫌だ。
その時どう返答したのか全く覚えていない。